誰もが入りやすいお寺は、お寺にとって本当に助けになるのか?
お寺の敷居を下げることは、
本当にお寺にとってためになるのだろうか?
先日、お寺の活性化について話し合っているとき、
とにかくお寺に人が集まりさえすれば、
お寺は上手くいくようになるという論調にハラハラし、
そんな疑問を周りにぶつけてみました。
私自身、お寺の活性化でお坊さん達の講師をさせて頂いたり、
その中でお寺に人が入りやすくなる方策をお話させて頂いている人間です。
お寺の敷居が下がり、誰もが入りやすくなることに、なんの異論もありません。
ただ一方で目的もなくお寺の敷居を下げたとしても、
お寺にとっては無闇に応対する相手を増やすだけで、
かえって疲弊してしまうのではないか。
そんなことも、考えています。
もちろん面倒くさいから門を閉ざそうというお寺は論外です。
出来るだけ多くの方に寄り添おうという姿勢は、
お寺にはあってほしいと思います。
しかし檀家もおらず、平日はサラリーマンとして働き、
さらに土日にお寺の仕事をこなしながら、
まだまだ負担を増やすような敷居を下げろという要求。
これでは中にいるお坊さんやお寺の方を
潰す行為になってしまうだけではないかと思ってしまうのです。
現在のお寺はほとんどが檀家さんからのお布施で経営
(と、言っていいか分かりませんが)が成り立っています。
しかしイベントや人生相談などでお寺に訪れた方が、
そのまま檀家になって葬儀を頼むことはそれほど多くはないでしょう。
お寺の敷居を下げるのであればそれがお寺にとっても、
特に経済的な助けになる形が必要かなと考えています。
私はそれを実現するテーマとして宿坊と仏前結婚式を挙げていますが、
お寺のいろんな収益モデルを作る作業がなければ、
敷居を下げるという理想も絵に描いた餅に成りかねません。
近年のお寺を開こう、一般の人を呼び込もうという風潮は、私自身は賛成です。
ただ一方でその先を見据える段階にもそろそろ入っていかなければ、
お寺を開こうという火もいつか消えてしまうのではと危惧しています。