Amazonの僧侶派遣に対抗したければ、死を細分化すればいい
一時期落ち着いてきた、Amazonの定額僧侶派遣。このところ、なんか再燃してきたようです。
Yahooのトップページにも久しぶりに登場し、お坊さん達がまたfacebookで様々な議論を交わしていました。
問題の発端は昨年12月、インターネット通販のアマゾンジャパン(東京・目黒)が「お坊さん便」の取り扱いを始めたことだ。法事や法要に僧侶を定額3万5000円で紹介する。お布施は宗教行為というのが仏教界の立場で、僧侶の側からは「お気持ちで結構」などと金額を明確には示さないのが一般的だ。全日仏は3月にアマゾンに取り扱い中止を求めた。
「なんでも商売にしてもうけるのは安易な世俗主義だ。節度がなさ過ぎる」。全日本仏教会(全日仏)理事長を務める浄土真宗・本願寺派の石上智康総長は、こう憤る。
みんれびの秋田将志副社長は「葬儀にお坊さんを呼べず困っている人がいて、お坊さんも檀家の減少などで困っている。われわれは両者をつないでいるだけ」と一歩も引かない構えだ。
私がこの問題に対して考えていることは、以下の記事に書いた通りです。
抜粋すると
お布施の意義を問題にするのなら、私はお布施は「払わされた」とちょっとでも思った段階で、すでに宗教行為として成り立っていないと考えます。Amazonでお布施が「定額」で示されているとか、業者の中間マージンが見えていないなんて問題は、「払わされた」という気持ちに比べれば些末です。
これは「定額」や「中間マージン」が無問題ということではなく、「払わされた」という気持ちが宗教性を害する問題の方が圧倒的に大きいということです。こうしたことを書くと、「いや、私のところではしっかりやっている」とか「お金のない人にはほぼ無償で葬儀しているお坊さんもいる」なんて話し始める人はいますが、個々のお坊さんやお寺レベルでしっかりやっている程度ではすでに解決できないから今の世間感情があるわけです。
とは言え、全日本仏教会とみんれびとどちらが正しい間違っているとか、そこにはほーりーはあまり関心がありません。そんなものは立場の違いで、いくらでも変わるので。
僧侶派遣中止を求めれば求めるほど、このサービスは世に広まる
ただですね。江戸時代だったら「あいつら仏教をないがしろにしている。あんなものは取り潰せ」と言えば、信仰篤いどこかのお殿様が何とかしてくれた可能性もありますが、現代社会においてそれはないと思うんですよね。
どちらかと言えば問題なのはリンクしたYahoo記事にもあるように、イオンのお布施明示化など過去にも様々な類似サービスが出たにも関わらず、「全日仏はこうしたサービスが登場するたび抗議を繰り返してきた。ただ、利用者の広がりを抑えきれていないのが実情だ」という、文句しか言っていない(ように見える)ことなわけです。
自分達の考えを発表することは批判しません。意見をぶつけ合うのも結構です。ただ、もはやそれで済むフェーズは過ぎているのではないでしょうか。世論を見れば決して全日本仏教会の意見を支持する人は、多数派ではないですし。
「今の人たちは信仰心が足りない」とか、「経済優先の思考が身に付き過ぎている」と言う考えは分からないでもないですが、今はそれを言えば言うほど目指したい世界と逆に向かうことに気がついた方が良いでしょう。
ぶっちゃけ全日本仏教会がAmazonに中止を求めなければ、こんなに炎上してサービスが世に認知されることもなかったですし。たぶん、みんれびさんは全日本仏教会の抗議のおかげで、何千万円という広告費を浮かすことができたと思いますよ。
Amazonの僧侶派遣に対抗したければ、死を細分化すればいい
そこで私は前回記事で「全日本仏教会は、お坊さんによるお布施メディアを作るといいよ」と提案しましたが、もう一つ思いついたので紹介します。それは死を細分化することです。
死を細分化するとはどういうことか。具体的に言えば、死因や亡くなった年齢によって供養を分けることです。これは現在のお金の額で区別するより、私たちお寺の外の人間にはよっぽど響きます。
例えば同じ亡くなるにしても、子供が亡くなるのと、働き盛りのお父さんが亡くなるのと、100歳を過ぎて大往生するのとでは、遺族感情はまったく異なります。
現実の葬儀に置いても、これは如実に現れています。一般的には若くして亡くなる方が、遺族の悲しみや生活への影響は深くなります。私は現代人は信仰心がなくなったことより、平均寿命が延びたことの方が、葬儀が簡略化される要因としては大きいと考えています。
ちょっと話は変わりますが、私は霊園会社の顧問も務めています。そこでよく聞く話のひとつに「親が亡くなるよりペットが亡くなるほうが、号泣する人もいる」ということです。人間より犬や猫と別れる方が悲しいなんて薄情だと思う方もいるでしょうが、生物に寿命というものがある限り、「死に対する納得感」が悲しみの差になることは十分にあり得ます。
なので10歳未満で亡くなった子供の葬儀や法要のみを専門に行う僧侶とか、抗ガン治療で苦しみぬいた上で亡くなった方のみに特化したお坊さんとか、そうした専門分野を新たに作っても良いと私は思うのです。どんな死でも平等に駆けつけるという考え以外のものを作るのです。
もちろんそれを実現させるに当たっては、現在の仕組みだけでは全く足りないでしょう。葬儀法要を行うプロセス、法律的な知識、各種支援団体とのネットワーク、世の中に広める努力、そして何より仏教と死をどう結び付けなおすかというお坊さん自身の信仰のあり方も問われます。
しかしAmazonの定額派遣に対抗しようとするなら、「画一的」と真反対に向かう以外に道はありません。そして死が強いタブー性を持つ今の日本でこうした「死の分類分け」ができるのは、私はお坊さん以外にないと思っています。
葬儀法要の画一性をどこまで壊せるか。これはAmazonの定額派遣に対抗する、ひとつのキーワードになっていくのではないでしょうか?