過疎にある荒廃した神社をよみがえらせた東川優子宮司の挑戦
先日、奈良県御所市にある葛木御歳神社(かつらぎみとしじんじゃ)へ行ってきました。
最近、過疎地域で奮闘している寺社の研究を進めているほーりーですが、この御所市も過疎地域に指定されている場所です。
ちなみに付近の風景はこんな感じです。のどかでいい景色ですね~。
なんて、思っている場合ではなく。行く途中で道に迷い、延々と農道を突っ切りながら撮影した一枚でした。田んぼや畑から脱出できずに30分も遅刻して、思いっきり焦ってしまいましたよ。
しかしどうにか神様に導かれ、目的の葛木御歳神社に到着しました。
荒廃した神社をよみがえらせた東川宮司の挑戦
ほーりーは大阪方面から御所市へと向かいましたが、天王寺から御所駅までは電車で1時間強。奈良駅から向かっても、だいたい同じくらいです。
そして御所駅から葛木御歳神社へは、タクシーで15分ほど。貧乏性な、、、ではなかった。付近の寺社もいろいろ散策しようとしたほーりーは、駅からレンタサイクルで行くことにしました。
まあ、その選択が道に迷って遅刻する原因になったのですが。
ともあれ、行くのが結構大変な神社です。そんな場所へなぜ向かったのかと言えば、来月に控えている神主さん研修会の講演資料を作るために、取材しておきたいと考えたからでした。
葛木御歳神社と言えば、詳しい方ならピンとくるかもしれません。
神代の時代に創られたとされるほど歴史が古く、仁寿二年(857年)には大和国で唯一最高位を授かったほどの古社。
「御歳神」をまつる全国の神社の総本社でもありますが、15年前はあちこちの傷みが激しく参拝することもはばかられるほど荒廃していました。
明治の初めは3万5千戸ほどだった氏子さんも、現在は100戸ほど。とある雑誌の神社衰退を特集した記事には(神社名は伏せられたものの)写真が載ってしまうほどの厳しい惨状だったようです。
ただ、これはある意味で日本各地で同じような危機に直面している神社の一つと言えます。しかしここに来て葛木御歳神社に注目が集まっているのは、現在宮司を務める東川(うのかわ)優子さんが10年以上に渡って社殿やコミュニティの再生を行ったためです。メディアでも神社を再興させた立役者として紹介されていますが、
寂れた神社再興し女性宮司がカフェ運営 奈良・御所の葛木御歳神社
厳しい神社経営……地域の貢献とともに生き残りに取り組んだ奈良県の葛木御歳神社とは
と、タイトルを見ただけでも、その奇跡の復活劇がうかがえます。
詳細は上記の記事を読まれれば分かりますが、大まかな流れとしては
1.塾経営や家庭教師として働いてきた東川さんが、神社に惹かれて神職になることを決意
2.インターネットで情報発信したところ、神社が好きな人が集まり、手水や摂社、拝殿、玉垣などを修復
3.クラウドファンディングでカフェを新設。神道や古事記の勉強会なども行う
というものです。
時系列でまとめると、以下のようになっています。
2004年 東川さんが神社に入り、神社の改修に取り組む
2005年 手水の修復
2005年 新嘗祭が復活
2006年 屋根が落ちた旧社務所を取り壊す
2006年 神饌所を改修(社務所として使用)
2006年 石段横に道を造成
2008年 御歳神社崇敬会募集開始(翌年に第一回総会開催)
2009年 月次祭が復活
2009年 境内に砂利を敷く
2009年 御田祭り70年ぶりに復活
2009年 おとしだまの森倶楽部(里山整備のボランティア)発足
2009年 前宮司が引退され、東川さんが跡を継ぐ
2010年 拝殿の階段修復
2010年 中鴨さろん(休憩所)&トイレ設置
2010年 平城遷都1300年祭
2011年 八幡神社(兼務社)修復
2012年 境内の摂社修復
2014年 瑞垣を修復し、全ての改修工事完了
2015年 クラウドファンディングで、境内にカフェオープン
神社に入り、約10年に渡る大改修事業。そしてそれが終わった後のカフェを中心にした新たなコミュニティ作り。
神社を次世代につなげていくためにも、ひとつの大きなモデルケースになると感じます。
東川優子さんは地元でどのような目で見られたのか
そしてこちらでほーりーが聞きたかったことは、地元の方とどのように協調して神社復興を進めていったかということです。
私の周りでも外部の力を活用して、お寺や神社を盛り立てようなんて話はよく聞きます。しかし本気で進めようとすると、衝突して終わることもよくある話です。
なんて他人ごとではなく、かくいうほーりーもぶつかってしまったことがありますが。
しかしこちらでは縁もゆかりもない女性が神社に入り、インターネットでボランティアを呼び込んで建物をどんどん新しくしていく。メディアの記事では美談に仕立てられています(し、実際に美談だと思います)が、本当はもっと激しい反発もあったのではと思ったのです。
そしてこうした疑問を東川さんにぶつけると、「私は前宮司の家に一度嫁いだので(後に、離婚した)」との回答でした。
一度は宮司家に入り、今も東川姓を名乗られている女性。これは地元と溶け込むためには大きな要素となったことでしょう。時代潮流的にこうした話を好む方と好まない方とがいるでしょうし、メディアの記者も書きづらかったのか、あまり取り上げられなかった話のようです。
まあ、読み物としてなら単身で飛び込んだ女性によって神社が復活! の方が面白いでしょう(そして、実際にその通りですし)が、他でも参考になる神社活性事例として書くなら欠落させてはいけない情報な気がしますので、東川さんの許可も取れているのでここでは公開しちゃいます。
ですが当然ですがそれだけで、神社関係者が諸手を挙げて歓迎なんて甘い話にはなりません。お話を伺うと「新しい宮司が友達を呼び込んで、神社を乗っ取ろうとしている」なんて、言われたこともあったとのことでした。
よそ者宮司が地元で受け入れられるために行ったこと
東川さんも手水や社殿の修復手伝いに来たボランティアの方々も、地元と衝突することは本意ではありません。
しかし若い人たちに氏子さんに話しかけるようにお願いしたり、直会で同席する場を設けたりしましたが、なかなか打ち解けるまでにはいきませんでした。
時には地域外の人が中心となる崇敬会を前に立ててしまって、氏子さんを激怒させてしまったり。そんな失敗を繰り返しながらも東川さんは粘り強く、間を取り持とうと働きかけます。
そして空気が変わったのが、平城遷都1300年祭(2010年)のイベント時です。葛木御歳神社も会場に選ばれ、奈良県、御所市、氏子さんと共に、崇敬会や山を整備するおとしだまの森倶楽部が一緒になって実行委員会を結成します。
いわば内外の人がひとつのテーブルに着いたプロジェクト。一年がかりで企画を作り、神社をどうしていくか話し合う中、ようやく外部の人間も神社が好きで集まっているということが氏子さんたちに伝わっていきます。
それ以降、イベント後も地元の方から力強いバックアップが得られるようになりましたが、東川さんが振り返ってみた時に、内外からの協力が得られた背景には3つの要因があったようです。
尊敬する先生から、ホームページを作ったらと言ってもらえた
神社では神道や自分の意見を語ることをよしとしない「言挙げせず」という言葉があります。このためウェブサイトやブログを作る神主さんは、あまり多くないように思えます。
しかし東川さんは尊敬する皇學館の先生から、ホームページを作ったらいいと言って頂けたことで、情報発信する勇気が持てたとのことでいた。
そしてこれが多くの方の目に留まり、ボランティアの協力が得られるようになったのは先に書いた通りです。
窮地にあった神社だからこそ、みんなが手を貸してくれた
中途半端に何とかなっている神社ではなく、傷みが激しく将来的な見通しの立たない状況にあったからこそ、いろんな人が力を貸してくれたそうです。
秩父の山奥で半径5km以内に人が住んでいないお寺を宿坊にした大陽寺なども典型ですが、現代は強烈なマイナスにあるものほど、熱意と行動によってプラスに転じやすくなります。
内外の人間で、一緒に困難を乗り越えることができた
平城遷都1300年祭は大きなイベントです。地元の人と地域外の人間で一緒に実行委員会を結成したと書きましたが、逆の言い方をすればそうしなければ乗り越えられないほど、高いハードルだったということでしょう。
ドラゴンボール世代のほーりーが例えるのなら、フリーザと戦うために手を組んだ悟空とベジータみたいなものでしょうか。
こうした機会が葛木御歳神社に生まれたことはラッキーだった面もありますが、そこでしっかりチームが作れたのは東川さんが内外を結びつけようと続けた努力が大きかったと思います。
ということで、、、
このような話を、葛木御歳神社にある「サロン&カフェ みとしの森」でランチとケーキを頂きながら聞いていました。
メニューは、
トマトクリームのスープ、レタス・玉ねぎ・リンゴのごまだれサラダ、厚切りベーコンとごろごろ野菜のトマトスパゲッティ(ナス、菜の花、しめじ、ベーコン、粉チーズ)、鴨肉のバルサミコ酢かけ、リンゴの生ハム乗せ、鴨肉とクラッカー、シフォンケーキ、バニラアイス、イチゴ、サイフォンコーヒー
です。
これが野菜のシャキシャキ感が半端なくて、自然の恵みをそのまま頂いている感じでおいしいんですよ。大阪など関西の方はよく来られるそうですし、中には北海道から訪れた方もいるそうです。
私がお話を伺っているときにも、東京から来た女性がお参りされていましたし。
気になった方は、ぜひぜひ足を運んでみてくださいね。とても素敵な神社&宮司さんですよ。