應典院で一番白熱した、観光はお寺の役割と言えるか問題
先日、大阪の應典院で登壇した宿坊トークイベント。秋田住職と様々な意見を述べ合い楽しかったのですが、その中でも興味深かったテーマの一つに「観光はお寺の役割と言えるのか」というものがありました。
寺社旅研究家のほーりーは間違いなくYesですし、コメンテーターとして参加した陸奥賢(むつさとし)さんも観光家としての肩書を持ちながらお寺と関わっているようにYesの立場。一方、秋田住職はどちらかと言えば懐疑的な見解です。
数で言えば2対1ですが、3人中唯一のお坊さんが反対しているのでは、なんか不利だぞ!
そこでいくつか論点が出たのですが、主に以下の3つに収束されました。
(1)観光には宗教性があるのか?(宿坊は布教につながるか)
(2)観光には公共性があるのか?(宿坊は社会の役に立つか)
(3)観光には経済性があるのか?(宿坊はお寺の経営を支えるか)
このうち、(2)と(3)に対する答えは、以下の記事に記したのでご覧下さい。
今回は一番大切な(1)宗教性について、まとめておきます。
「観光」と「信仰」は切り離されたもの?
お寺の経済的な成り立ちとしてよく使われる言葉に、「檀家寺」「信者寺」「観光寺」の3つがあります。「お寺はコンビニよりも数が多い」という言葉をお坊さんの法話で劇的に流行らせた『お寺の経済学』から要約すると
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○檀家寺…檀家の葬式や法事などで成り立つお寺
○信者寺…お守り、お札、ご祈祷などで成り立つお寺
○観光寺…拝観料により成り立つお寺
という区分です。
観光寺についてさらに細かく読むと、「信仰心とは無関係に観光客が物見遊山で訪れるお寺である」と記述されています。この言葉が世間の空気をすべて言い表している気がします。
私も以前とあるお寺の紹介で「○○(地名)を代表する観光寺院」と書いたら、「うちは観光寺院じゃない」と怒られたことがありました。最近の話でも活性会議に参加した日蓮宗総本山・身延山久遠寺で、「観光は一段下に見られる」という意見が出ていました。
世間一般のイメージでも「観光」と「信仰」は切り離されたものなのでしょう。まあ確かに、京都の有名寺院に行ったからって、私は仏さまにお参りしていると感じる人は多くないでしょうし。
お寺はテーマパークじゃねえんだよって言葉もよく聞きます。
あと、どうでもよいですが「お寺の経済学」の表紙絵、いつの間にか思いっ切り変わっていたんですね。藍色をバックに後ろ姿でお坊さんが合掌して、ちょっと背徳感が漂っています。私の持っているバージョンだと、五重塔が描かれてもっとさわやかでしたが(ナニカ、ネラッテイルノカナ)。
うん、話が脱線しました。
「観光」と「信仰」の間にあるニーズの変化
宿坊研究家のほーりーは平安~江戸時代の本もよく読むのですが、この時代の旅とは「信仰」を意味していました。もちろん東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんのように、非日常に飛び出て羽目を外すことも多かった(それが目的?)ですが、それでも旅と信仰は直結しています。
しかし現在、観光は明確に信仰から切り離されています。これを江戸時代と一緒にすんなと言うのは簡単ですが、私の視点から見ると「旅に対するニーズの変化」です。
つまりみんなでお金を出して講を結成し、代表者が五穀豊穣を祈りに行った時代には、神仏にお参りすることが最終ゴールでした。しかし「首からカメラをぶら下げるのが日本人」のような時代を経て、旅は「お参り」よりも「見る」ことに主題が置かれます。
簡単に言えば
○団体客が平均的に満足できる(=大きな不満が出ない)
○団体客を効率的にさばくことができる
という2点において、「見る」「見せる」は需給共に都合が良かったのです。
ところが現在、ニーズは個人旅行に移ってきました。そうすると旅のスタイルも、より個人の心に沿ったものが重宝されます。
観光のニーズは見ることから体験すること、そしてさらに人と会うことに移ってきています。これは文化財などのモノがなければ人が来なかった時代から、仏教・神道を伝えることやお坊さん・神主さんの個性で人が集まる時代になるということです。宿坊にとっては大きなチャンス☆
— ほーりー(寺社旅研究家) (@holy_traveler) 2017年3月31日
秋田住職との話でも、私が一番空回りしていると感じたのはこの部分です。秋田住職は途中まで「観光において、仏教体験は脇役」という想定で会話されていた(と思う)のですが、私が考えている宿坊のメリットは仏教体験こそがメインで、それを目当てに旅行が組み立てられることです。
なので「秋田さんが考えている観光と、私がイメージしている観光はかなり違うのでは」と発言したら、ようやくご納得いただけたようでした。
ということで、、、
もちろん、「仏教体験」と「仏教」の間にも大きな壁があります。ですがこれまでのような物見遊山な観光と比べれば、明らかに仏教的な価値を伝えやすいはずです。
例えば試しにやった座禅でいいなと思ってもらえれば、地元のお寺で坐禅会に参加するきっかけになるかもしれません。
写経をして心がすっきりしたら、写経セットを買って家でも書くかもしれません。さらにはそこから、お経について解説した本まで読むこともあり得ます。
お坊さんの法話に良い言葉があれば、それを日常に活かすことだって考えられます。
これは私自身、そうした道順をたどったから言えることです。私は最初、建築を見ることが好きになりました。その意味では上に書いた「物見遊山な観光」からのスタートです。
しかし宿坊に泊まり、座禅や写経を体験して、精進料理を頂いて。お坊さんの話を聞いたりお経の本も読むうちに、仏教もだいぶ日常の中に入り込んできました。
というか最初に大学で旅行サークルに入った時、こんなにどはまりするなんて思わなかったよ。
もちろん、私みたいな人間は少数派です。しかしお試し体験から「仏教」へと導くのはお坊さんの役割ですし、また「仏教体験」で留まる人を無理に引き込まないのも宿坊の大切な要素です。
今回の宿坊トークイベントだって、終了後(開催日が3/10だったので)に東日本大震災の7回忌法要が行われ、宿坊を目当てに集まった人も仏さまの前で手を合わせていましたし。
いきなりお寺の中にどっぷり引きずり込むのではなく、出たり入ったりしながら宗教と社会の接着点になる。それが宿坊の良さだと私は考えています。