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世界唯一の旅行大国を作った宿坊の歴史

01.宿坊
 

映画やドラマ、小説に漫画など、フィクション、ノンフィクションを問わず人の心を揺さぶる物語には法則があります。それはV字ストーリーというものです。

平穏な日常に突如問題が発生し、どん底まで落ち込んだ主人公がそれを解決する。ハリウッド映画ではお馴染の展開ですが、宿坊の歴史はまさにこのV字の軌跡が当てはまります。

そこでここでは宿坊の歴史と、日本に与えた影響について振り返ってみます。

世界唯一の旅行大国を作った宿坊の歴史

宿坊の成り立ち

宿坊の成り立ちは平安時代に遡ります。延喜7年(907)の宇多法皇御幸(ごこう)を皮切りに、多くの上皇が訪れた熊野。貴族の旅は各地の荘園事務所や荘官の住宅が主な宿泊所でしたが、中には寺院に泊まることもありました。永保元年(1081)に熊野に参詣した藤原為房(ふじわらのためふさ)が記した『大御記(だいぎょき)』には、道中に和泉国府南郷の光明寺というお寺に宿泊したことが記録されています。

熊野 実方院跡
【熊野で上皇や法皇の御宿所となった実方院跡】

そして参拝者の宿泊を生業とする宿坊の原形と言えるものは、平安後期の公卿(くぎょう)で左大臣まで務めた藤原宗忠(ふじわらのむねただ)の『中右記(ちゅうゆうき)』に初出します。天仁2年(1109)の熊野詣の際、本宮では修理正寺主房(しゅりしょうじしゅぼう)、新宮では鳥居在庁(とりいざいちょう)、那智では寂定坊(じゃくじょうぼう)に泊まったことが書かれています。

この時の宿坊は御師(おし)と呼ばれる熊野三山の社僧が開いたもので、参拝した信徒(檀那)を神仏と仲介して宿泊のお世話をするものでした。中右記には鳥居在庁を「新宮の師」と記しています。

また伊勢でも平安中期には御師(伊勢では「おんし」と読む)の宿が作られ、神前にて祝詞奏上が行われていました。さらに参拝旅行が発達するにつれ、石清水八幡宮、賀茂神社、日吉大社などにも同様の宿が登場します。

こうした宿坊は当初、貴族階級の宿泊が中心でした。しかし鎌倉時代には武家に広まり、室町時代には農民までが師檀関係を結んでいきます。

宿坊が旅行の土台を作った江戸時代

戦乱が終わり、太平の世と呼ばれた江戸時代。この時代の日本は世界的に見ても例を見ない、平和で豊かな国でした。その一つの現れとして特権階級ではない一般庶民が旅行に出ていたことが挙げられます。

なぜ、庶民が旅に出られたのか。その要因は3つあります。

一つは経済の発達により、生活基盤が安定したこと。歴史の教科書では大きな出来事がないので飛ばされがちな江戸時代ですが、庶民にとってはむしろ大きな変化をもたらした時期でした。

特に大きかったのは貨幣経済の普及です。お金自体は前からありましたが、急速に使える場所が増えたのは江戸時代に入ってからです。お金さえあれば旅先でも物が買える。毎日履きつぶす草鞋さえ、持ち歩かずに済むようになったのは大きな進歩です。

次に主要街道が整備され、旅の安全・利便性が向上したことも見逃せません。参勤交代は諸大名の財力を奪うことが狙いのひとつでしたが、道中の出費は大名家の年間支出の5~10%を占めたと言われます。

めちゃくちゃイメージなので正確ではないですが、現代に当てはめればすべての道府県(都は江戸なので省く)の行政予算の5%以上が公務員の出張費に使われていたのです。

それだけ莫大な額が街道や宿場に落ちていけば経済効果も大きなもので、道も町も一気に整っていきました。

さらに最後の要因は、旅行情報が庶民の手元に届いたこと。どこにどんな観光ルートがあるか、どうすればそこまでたどり着けるのか。情報がなければ旅に出ようにも出られません。そしてこの旅情報を庶民に届ける上で、宿坊は大きな役割を果たしていきました。

宿坊は単にお参りに来た参拝者を泊めるだけの宿ではありませんでした。全国各地に出かけては所属する寺社のご利益を説き、道中ルートや宿の紹介、現地での世話を一手に引き受けています。また加入者間で積み立てたお金で代表者が参拝に出る講の結成に尽力するなど、江戸時代の総合旅行会社とも呼べる活躍を見せていました。

最盛期の伊勢神宮では、御師の宿は800軒を数えています。また修験道の聖地として篤い信仰のあった山形県出羽三山の手向地区には、336坊が軒を連ねていました。江戸からお参りしやすい神奈川県の大山は講員数が関東一円で70万軒にも上り、長野県の善光寺や戸隠、東京の御岳山、山梨県の身延山、和歌山県の高野山など、今に伝わる宿坊街もそれぞれ活況を呈していきます。

出羽三山 五重塔
【出羽三山 五重塔】

当時の旅行はほぼ寺社への参拝を意味していましたので、宿坊が日本の旅に情報と仕組みを流通させたと言っても過言ではないのです。

廃仏毀釈による宿坊の受難と復活

しかしそうした宿坊の状況を一変させたのは、明治時代に政府から発令された神仏分離令(1868)でした。これを機に始まった廃仏毀釈により、宿坊は一転して弾圧の対象となります。

特にそれは修験道の聖地で激しく行われました。もともと修験道は神と仰ぎ見ていた山々に密教の思想が組み入れられた、日本独自の信仰形態です。しかし神仏分離令は、この修験道の思想と真正面からぶつかるもの。数々の堂宇は破壊され、経典・仏具・仏像などは全て焼かれてしまいます。僧職は追放を余儀なくされ、仏教の痕跡は残すことすら許されませんでした。

また伊勢神宮の御師の宿も、「神聖な神宮を商売にしている」として徹底的に排除されてしまいます。その後、時代の荒波をどうにか潜り抜けた宿坊も、戦時中の混乱や核家族化による講中の減少、高度成長期の乱開発の波、豊かさを追求する大量消費のライフサイクルなどで、消滅や衰退の一途を辿ることを余儀なくされました。

江戸時代に何千軒とあったであろう宿坊が今は500軒ほどとなっているのには、このような経緯があります。ただ平成の世になり、宿坊にスポットライトが当たり始めたのは大きな機運です。きっかけは私(宿坊研究会)であると自負したいところですが、逆風にさらされながらも存続してきた各地の宿坊の努力と、時代が求める空気が合わさってきたからでしょう。

豊かさの定義は物から心へ変化し、グローバル社会の到来は日本独自の精神を見なおす契機になっています。インターネットの発達は志向の細分化を促し、「観光立国化」「地方の過疎化」「自死自殺対策」「廃寺・廃神社の活用」など、これからの宿坊が担う役割にも期待が高まっています。

もしこの流れがあと10年遅かったなら、世界に誇れる貴重な財産が、根元から失われていたかもしれません。今、ここで宿坊を盛り立てていくことが、これからの日本の百年を占うことにもなっていくのです。

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