生老病死の「生」は苦なのか、お坊さん達に聞いてみた
先日、とあるお坊さん講習会で『法話』をテーマに講演してほしいと依頼されたほーりーです。
ええっと、困った。僧侶でないほーりーは、これまで法話をしたことがありません。鹿児島で10人のお坊さんが話す法話会に、非僧侶としてただ一人登壇させて頂いた時も、「感話」というタイトルがついていました。
ただ、人前で話す機会はちょいちょいあるので、現在はそこでの工夫や気をつけていることをまとめています。
「生」は「老病死」と切り分けられている
そして話はそれますが、そんな資料作成を行なっている中、これまであちこちで聞いた法話のメモを見返しています。そしてちょいと、気になる疑問が湧いてきました。
それは『生老病死』の生は、なぜ人生に占める4つの苦にエントリーしているのかということです。
老病死は分かります。けど、人の誕生って苦しみなの? というのは、率直に違和感があります。
お釈迦様が出家を決意した四門出遊の話でも、三方の門からお城を出たら老人、病人、死人がいて、北の門では行者と会ったと言われてますし。
(北では妊婦、または赤ちゃんに会ったという話も聞いたことがありますが、これはスタンダードではないようです)
下は先日、町屋光明寺で見た四門出遊の法話スライドです。
そして、ゲームクリエイター僧侶・向井真人さんが作った花まつりポストカード。
さらにこちらはお坊さんが書いたものではないですが、東京・真宗会館が発行している会報誌『サンガ』に医師の徳永進さんが寄稿されたコラムです。
どれもこれも「生」は「老病死」と切り分けられています。
生老病死の「生」は苦なのか、お坊さん達に聞いてみた
そんなわけでこの疑問をfacebookでお坊さん達にぶつけてみたら、いろんな答えが返ってきました。
人によって回答が異なりましたが、大きく分けると3パターンに分かれます。
生まれることは、苦しいこと
母親の胎内から狭い産道を通って、外の世界に弾き出される。それは赤ちゃんにとってものすごい環境の変化だし、老病死に負けない苦しみだという考え方です。
ごく稀に母親の胎内にいた時のことを覚えている人もいるそうですが、昨日のお昼ごはんさえ忘れるほーりーにはその記憶がありません。
が、まあ、苦しかったのかと言われれば、きっとそうだと思います。
生まれることは、人生のスタートライン
人生とは苦難に満ちたものであり、生まれることは、その苦しみが始まることという考え方です。
そのお坊さんの説明の仕方にもよりますが、「生まれる」というより「生きる」という意味で捉えているようにも思います。
これなら確かに、「生」は苦しみだなと納得感があります。ただあえてひねくれた見方をすると、生が人生全て表すなら、老病死いらなくね? と、思ったりもします。
苦とは現代で言う苦しみを指してない
苦とは苦しみではなく、「思い通りにならないもの」の意味という考え方です。パーリ語やサンスクリット語のドゥッカが苦であり、これがその意味だと教えて下さった方がいました。
この説明はほーりー的には、論理的でとてもスマートに感じます。
生まれることの乱数度合いに比べたら、努力で変えられる変数なんて屁みたいなものですし。現代語に訳せば、人生はみなガチャであると言うことなのかもしれません。
ということで、、、
とりあえず生老病死の「生」について、お坊さん達の説明を3パターンに分けてみました。ほーりーは仏教学者ではないので、どれが正しいとかジャッジするつもりはありません。
ただこうした話をお聞きしながら関心があるのは、生老病死へのアプローチはこれからどのように変化するかということです。
古代では生まれることそのものが、命がけでした。そして子どもが成人する確率も、今よりずっと低かった社会です。その時代と現代とでは、「生」の苦しみは全く異なるものかもしれません。
そしてもし「生」の苦しみが小さくなったのであれば、それは今後の更なる医療発達によって、老や病、あるいは死の苦しみも極小化する可能性があるとも言えます。
その時に「生老病死」はどのような説明となるのか、なんて辺りを考えています。まあ、大部分は趣味の夢想ですが。
そんなわけでこれと合わせて、先日ツイッターで生老病死どれが一番の苦かを聞くアンケートも取ってみました。
その結果と考察は、また改めてまとめまーす。