お寺の宗教性を高める2つの方法
お坊さんの講習会で講師をさせて頂くとよく受ける質問の一つに、「入りやすさを強調して敷居を下げると、宗教性が失われませんか?」というものがあります。
○むやみにお寺を開くと、どんな人がくるか分からない
○仏教に興味ない人が来て盛り上がってもしかたない
○お寺に来るのであれば、お寺のことを勉強しておくべき
というのも、似たパターンです。
一番最初にこの質問を受けたのは、東京・増上寺で行われた『尋源培根塾 (じんげんばいこんじゅく)』だった気がします。
もう5年も前の話ですが、こちらで講演させて頂いた時に聴講されていたお坊さんから「お寺が消費されてしまうことが心配だ」という言葉を聞いて、なるほどなと思ったものです。
そして、京都・東本願寺での講演依頼を受けた時には、敷居を下げることの是非がテーマの中心でした。
境内にある同朋会館は全国の大谷派寺院やその門徒さんの研修施設ですが、一般の人も受け入れることを検討されていました。しかし仏教を知らない人が来ると、場の空気が劣化するという意見もあり、外に開く意義を整理してほしいというのがほーりーが呼ばれた経緯です。
お寺を開くことは本質を磨く力になる。東本願寺でお寺活性講演をさせて頂きました。
さらに去年、大阪の應典院で宿坊をテーマに講演させて頂いた時も、この話題でディスカッションが生まれています。宿坊を作ってお寺に人が出入りすることは、果たしてお寺のためになるか(布教につながるか)と議論になりました。
他にもやはり去年、宇都宮で講演させて頂いた時に「仏教を伝えるために、妥協は必要ですか?」という質問を受けました。
今までのやり方では興味を持ってもらえないので、大衆受けする形に変えた方が良いのだろうか? しかしそうすると、大切なことが伝わらなくなるのではと質問を頂いたので、「本質を手放すことも、今まで通りを押し通すことも、大切なことが伝わらなくなるという意味では同じですよ」と答えています。
そんな感じであちこちで受けた質問のエッセンスを抜き出せば、「入りやすさを強調して敷居を下げると、宗教性は失われるのか?」ということに尽きるのですが、これについてのほーりーの答えを、現代の時代背景も交えて語ってみます。
お寺の宗教性を高める2つの方法
私はお寺の宗教性を高める方法は、2つあると考えています。一つは少数精鋭で、ルールを理解できる人だけが集まる方法。場を閉じることで異物を排除し、徹底的に純化する道です。
これは多分、多くの方にとって分かりやすいロジックだと思います。メンバー全てが一つの方向を向いているなら、宗教性は高まります。お互いがお互いを刺激し、レベルを高め合うことも可能です。
しかしもう一つはひたすらにお寺と縁のない人を受け入れ、初心者の質問にとことん向き合う方法です。
ちょうど先日、ほーりーがテレビ出演した時に、鳥取の宿坊・光澤寺さんのVTRが流れました。そこで宿泊された女性がご住職の話を聞いて涙を流していたのですが、この例は典型です。
宿泊者が涙した宗元住職の法話は、宿坊で仏教初心者と話し続けた産物
宿坊・光澤寺は、一日一組限定です。しかも住職は宿泊者と一緒にご飯を食べたり、お酒を飲んだりといったこともしばしばです。
そして仏教の話をすれば、「それってどういうことですか?」と質問されたり、「その説明ではピンとこない」と異論を述べられることもあるでしょう。浄土真宗のお寺なので「阿弥陀様とは何でしょう?」と初歩的なことを聞かれたり、「南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の違いは何ですか?」と他宗派との違いを問われることもあると思います。
それは仲間内だけの議論とは、全く異なるベクトルを持ちます。
また、先に紹介した東本願寺同朋会館も日にちを限ったイベント的な形ですが、私の講演が終わった後に一般の人にお寺での生活を体験して頂く『東本願寺に泊まって学ぶ親鸞講座』が作られました。
こちらはお寺や親鸞聖人についてあまり知らないけれど興味ある方を対象にした講座で、御堂参拝、法話、語り合い法座、おつとめ体験、御堂・境内清掃、精進料理などが盛り込まれています。
終了後にお聞きしたところ、参加された方はもちろんですが、応対したスタッフのお坊さんにとってもいつもとは異なる質問がどんどん飛び出し、大きな学びがあったとのことでした。さらにはこのイベントに参加した方で、もともとは仏教についてほとんど知らなかったのに、一念発起してお坊さんになられた方まで生まれています。
また一緒に宿泊したことで連帯感が芽生えたためか、同窓会的に集まって同朋会館に来られる方もいるそうです。
身内同士の当たり前や慣習、暗黙の了解に疑問を抱く初心者は、常に原点に立ち返らせます。素朴な質問が許されるのは新参者の特権で、当たり前を言語化し続ける作業はその場の宗教性をも磨きます。
人口流動時代には、場を開くことが必須となる
少数精鋭で、徹底的に純化する道。
多くの人が出入りする中で、場を磨く道。
これはどちらか片方を選ぶ二者択一ではなく、両者を組み合わせたデザインが必要です。両者のメリットデメリットを並べると、以下の表のようになります。
例えばサッカーで言えば、初心者でも楽しめる少年サッカーや社会人の草サッカー、お茶の間で見るテレビ中継などがなければ、プロリーグは支えられません。しかし日本代表のようなチームを誰にでも開いていたら、トップレベルは崩壊します。
モータースポーツで言えば、F1のように技術の粋を集めた場から、私たちが公道で乗る自動車の技術が革新されることもあります。軽量化に必要なカーボンファイバーや凹凸のある路面でも車体を水平に保つアクティブサスペンション、燃費性能やエコ技術などはレーシングカーからの技術転用がなされた分野です。
ほーりーが講演でよく使うマラソンの図で言えば、頂点に立つ人と麓にいる人間はどちらも大切な一要素です。
しかしお寺に関して言えば、これまでの檀家さん組織を中心とした少数精鋭思想は広く根付いている一方、多くの人が出入りできる場への理解はまだ限られています。
もともと限られた人間だけでのコミュニティ設計は、人間がひとつの土地で暮らす時代には、効率的な運営方法でした。
メンバー全員がルール(暗黙的なものまで含めて)を理解していれば、余計な説明やトラブルへの対処コストは発生しません。
信仰も家族単位で受け継がれるので、新たな勧誘は不要です。新参者は場の振る舞い方を「常識」として身に付けているのでスムーズに溶け込みますし、親から引き継いでいる「信用」のおかげで自分が何者かを説明する手間も省けます。
お布施の額でもめることも、あまりないでしょうし。
ですが人が住む場所を移動しながら生きていく時代になり、この方式が崩れてきたのは私よりもお寺にいる人の方が感じていることでしょう。
ほーりーはこうした流れを、「血縁」「地縁」「社縁」「知縁」「異縁」という言葉で表しています。
文字通り血のつながりで構成される「血縁」や、代々同じ土地で暮らす中で培われた「地縁」に変わり、会社が取り持つ「社縁」が人間関係を構築する上で大きなウェイトを占めるようになりました。
そしてインターネットの発達によって知識や興味を媒介にした「知縁」が広まり、さらにはお互いの長所を掛け合わせるために異なる背景を持つ者同士がつながる「異縁」も浸透し始めています。
こうした時代がさらに進むと、場を閉じたままでコミュニティを維持していくのは不可能になっていきます。必然的にお寺を次世代に残していこうと考えれば、多くの人が出入りする形も取り入れざるを得ません。
お寺を開きながら宗教性を高めるために必要なこと
ほーりーは以前、中外日報のお坊さん質問コーナーで、「本堂などお寺を地域社会に開放したいが、利用者のモラルが心配です」という相談に、回答させて頂いたことがありました。
そこで話したことは大まかに2点です。一つは人が集まれば当然、汚れや破損は起こるということ。そしてもう一つはモラルに関しては全体と例外とに分けることです。
特にお坊さんと話をしていてよく感じることは、この全体と例外のモラルを一緒に考えてしまう方が多いことです。
お寺を開けばこれまでお坊さんが接してきた檀家さんや信徒さんとは異なり、お寺の慣習やマナーに対する理解の浅い人(外国人も含む)が来るようになります。
するとトラブルや衝突、そこまでいかなくてもイラッとすることは増えるはずです。しかしこれらを悪意として捉えないことが、私はこれからお寺を開いていく上で大切な要素と考えています。
日常的にお寺やお坊さんと接する機会のない方は、ドキドキオロオロしながらお寺に足を踏み入れます。私自身、初めて宿坊に泊まった時はものすごく緊張しました。
なので何か問題が発生した時、9割以上は単なる理解不足です。ご本尊に油をかけるような例外には迅速な対応が必要ですが、全体にモラル違反と感じることは、単純に初心者がつまづきやすい点が見つかっただけと認識すれば済む話です。
相手もわざわざお寺という場を選んでくる人ですし、その信仰や精神性には敬意を払っています。それはお坊さんが教会に行った時に、うちの信仰とは異なるからイエス・キリストを冒とくしてやるなどとは思わないことと一緒です。
であれば、それはコミュニケーションによって解決できます。事前にルールとして明示しても良いでしょうし、注意を促す張り紙を張るのも一つの手でしょう。
部屋を汚さないでといらいらしながら見ているのなら、使用後の掃除をお願いしてしまう方法もあります。せっかくお寺という場なのだから、掃除をすることが仏教を学ぶ機会にもなるとまで言ってしまえば(もちろんそのための法話なども取り入れて)、義務的なやらされ感もなくなります。
またお寺を開く上でもう一つ大切なことに、10人入れば9人は出ていくことをどう受け入れていくかというものもあります。
少数精鋭の発想のままだと、入っても入ってもみんな出ていくと落ち込みます。ですがお寺以外ではお店でもサークルでも、それが日常です。
縁もゆかりもないお寺に、たった一度でも足を運んでくれるなら、それはとてもすごいことです。そしてそこからリピーターになってくださる方はもはや奇跡です。
なので「どうせみんな来なくなるから、お寺を開いても仕方ない」という、失恋したから恋はやめる的な思考は脱却して、お寺は人生の交差点のようになっていくといいなと個人的には思います。
ということで、、、
少数精鋭によるコミュニティは運営が効率的という話をしました。それは裏返せば多種多様な人が集まると非効率になるという話でもあります。
そして効率悪いけどそれしか方法がないから仕方ないよねという話にするのも無責任ですし、ほーりーはいろんな人の出入りがお寺を布教面でも経済面でも支えるモデル作りに取り組んでいます。
まあ、今回はそこまで述べるとさらに膨大な量になってしまうので、気になる方は他のブログ記事をお読みください。
こことかね。
ひとまず、お寺の宗教性を高める2つの方法でした~。