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お寺が排他的なのは、私たち「よそ者」のレベルが低いからです。

お坊さんとの打ち合わせ

組織の改革に必要なのは「若者」「バカ者」「よそ者」とよく言われます。よそ者は閉じられた社会の外から来た人。内部の人間にとっては当たり前すぎて見逃している魅力や問題に目を向け、拾い上げることができる人です。

私自身はお坊さんの研修に講師として呼ばれたり、一緒にイベントを開催したり、またお坊さんの集まりにも自分からどんどん首を突っ込むため、この「よそ者」としての役割を期待されることが多々あります。そしてまた、(動機は様々ですが)同じようにお寺社会に関わっていきたいという方から、どうすればお寺とつながっていけるかという相談を受けることもあります。

その中で違和感を感じることの一つに、「お寺やお坊さんは排他的で、外からの意見を受け入れない」というものがあります。

実際に、お坊さん社会は排他的です。ですが、こうした方の中には「排他的だと言われているから排他的だと思っている」という方が大勢います。何人かのお坊さんに断られて、「ああ、やっぱりお坊さんは排他的なんだ、言われていることは本当だった」と納得してしまうのです。

私の感触としてはお坊さんはそれほど排他的ではありません。オープンなお坊さんも、またそうしたお坊さんコミュニティも、世の中にはたくさんあります(特にここ数年、一気に増えました)。そしてそれを探すことがよそ者を目指す方には、一つの近道と言えるかもしれません。

私は「よそ者」という役割について、よく考えることがあります。「よそ者」とは「よそから”来た”者」であり、単なるよその者ではありません。ここを勘違いして、無遠慮に自分の持っている技術や文化だけでお寺社会の問題を解決できると考えるのであれば、接するお坊さん側も当然排他的になります

私がこのよそ者感を大きく考えるきっかけになったのは、一昨年、去年とお呼び頂いた日蓮宗宗務院さんでの講習会でした。というより、講習前後の打ち合わせや空き時間の雑談を通してです。

お坊さん同士の会話は「君の伯父さんはこれこれこういう人で、こんなことをしていたよ」なんて話題がポンポン出てきて、職場と家族は切り離されていた、私が過ごしてきた社会とはかけ離れていると感じました。

自分の両親、祖父母はおろか、親族までも周りの人間がみんな知っている(さらに言えば、その親族が実際にそばにいる)。もちろんそうした結束がプラスに働く面もあるでしょうが、もしも私がこの環境で育っていたら宿坊研究会は作れなかったかも(ましてや寺社コンなんて)と、思ってしまいます。お坊さんがどんな時に動きやすいか、どんな形だと動きにくいかということも、実際に付き合ってみないと分からないのです。

よそ者は外からの目線だけでよそ者になることはできません。内外両方の目線を持って、初めてよそ者になれます。その上で周りの誰も気づかなかった視点を見つけ出していかなければいけない。私はこの道を志しながら脱落していった人を何人も見ていますが、「よそ者道」は茨の道です。

私自身はお寺社会のよそ者プレーヤーはまだまだ足りないと思っていますので、お寺と関わりたい方は積極応援しています。ですがぜひ自分の足で、目で、ひとつひとつ確かめながら、よそ者の道に進んで頂けたらと思います。そして私にとってもまた、そこがいつでもスタートラインです。

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