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ぶっちゃけ寺を見なかったと誇るお坊さんの、絶望的センスのなさ

井上広法さん

テレビ朝日系「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺」が終了になりました。上の写真は、番組終了前日の井上広法さん(番組のお坊さん側仕掛け人)。

2014年9月に深夜番組としてスタートしてから好評となり、2015年4月にはゴールデンタイムに進出しましたが、約2年半が経過したところで一区切りとなったようです。

この番組、お茶の間にお坊さんが定期的に姿を見せたことで、これまでお寺がまったくリーチできなかった層に絶大なアピールを果たしました。私がお世話になっているお坊さんもたくさん出ていて面白かったので、終わってしまったのは惜しまれるところです。

ぶっちゃけ寺を見なかったと誇るお坊さんの、絶望的センスのなさ

それでfacebookやTwitter、直接の会話でも私の周りではこのぶっちゃけ寺が言及される場面が少なくありませんでした。が、私がちょっと感じたのは「俺はぶっちゃけ寺を一度も見なかった」と語るお坊さんが、宗派問わずいたことです。

まあ、バラエティ番組なので、好き嫌いはあるでしょう。あの番組が仏教をゆがめて伝えたと感じているお坊さんが、少なからずいることも分かります。そんな方にはこの記事でも読んでみてと思いますが。

お坊さんバブルで仏教が消費されることを危惧する方へ

それで好き嫌いはもう個人の感覚なのでどうとは言わないのですが、自分が身を置く業界であれだけ社会現象を起こしたものについて、一度もふれようとしなかったというのは、ちょっとどころじゃなくセンスを疑う行動です。

私は昔、システムエンジニアとして働いていましたが、そこに当てはめれば自分が直接作っているシステム(お坊さんに当てはめれば、宗派の教え?)の勉強はしても、社会に広く出ている技術情報にはまったくさわろうとしないのと同じです。

学校の先生で例えれば、国語や数学の教え方は学んでも、生徒の間で何が流行っているかとか、どんなことに悩みを持つかに関心がないのと一緒ではないでしょうか。

なにもぶっちゃけ寺を毎回欠かさず見ろなんて話ではありません(私もそんなにたくさん見れたわけではないですし)。ただぶっちゃけ寺の社会的影響度を考えて、お坊さんがあの番組を一度も見なかったというのは明らかに異常です。

プライドを傷つける情報にふれる大切さ

こうした「俺はぶっちゃけ寺を一度も見なかった」と語るお坊さん。その言葉から感じられるのは、あんな低俗なものを見ないことが、俺が仏教を真剣に考えていることの証だというものです。

が、私は単にこう思います。そうした人にとってぶっちゃけ寺を見ることは、プライドが傷つけられる行為なのでしょう。

ほーりーにも、こうした『にわかファン』に混ざることを嫌う感情はあります。具体的に言えば、みうらじゅんさんがそれでした。

建築好きから寺社巡りをするようになり、いろんなお寺を回るうちに、私は仏像を見ることも好きになりました。テレビの仏像特集でガイド役を務めたり、1万6000人以上の方がいいねしている仏像研究会というfacebookページも運営しています。

仏像研究会

そんな私ですが、だいぶ長いこと、みうらじゅんさんといとうせいこうさんの『見仏記』は読めませんでした。仏像の本だけでも50冊以上は読んでいるのにです。仏像好きな方はこの『見仏記』から入ったという人も多く、ミーハー的なスタンスで一緒にされるのが嫌だなと思う気持ちがありました。



 見仏記 (角川文庫)

 いとうせいこう・みうらじゅん 著

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仏像はメインテーマですらないのに、プロというプライドもあったのでしょう。『見仏記』を見ていないということが、鼻くそみたいな自意識を守る壁だったわけです。

が、実際に読んでみると、やはりこれがなんで世間で大ヒットしたかの気付きを得ることができるわけですね。仏像をゴジラに例える感性とか、お堂の中で大の大人がうたた寝しちゃったりとか。この本が出た当時、そんなゆるい姿勢で仏像を拝観するみうらさんたちの旅は、多くの人からお寺へのプレッシャーを取り除きました。世間に影響を与えているものには、ふれる意義があるわけです。

似たような話としては、マインドフルネスも同じですね。周りのお坊さんから3年前からいいよ、いいよと言われていましたが、なんとなく避けていました。それなのに昨年末からお坊さんによるマインドフルネスセミナーを展開する会社の顧問を務めることになり、現在はてんやわんやで勉強しています。

ということで、、、

私が社会からお坊さんに求められていると考えるものは、徹底的に清らかであることか、清濁併せ持ってすべてを包むような強さか、その極端な両者です。

一言で言えば、自分とは明らかに違うと思える超人性ですね。お坊さんと普段、ふれることがない人ほどこれは強いと感じます。

そして「清濁」について補足すれば、併せ持つのは社会に向ける目であり、お坊さん自体ではありません。自分の汚れを気にしないお坊さんが社会の汚れに不寛容であれば、そんなお坊さんに近づく人は誰もいないでしょう。ぶっちゃけ寺に話を戻せば、永平寺で3年間修行していて情報から隔離されているようなお坊さん以外は、あんなふざけた番組なんて仏教を貶めるという態度は、お寺の外にいる人を怖がらせるだけです。

こうした何となくぼんやりと嫌だなと思っていることって、無意識の中にたくさんあります。食わず嫌いかもしれませんし、食ってみたら本当に嫌いかもしれません。そして世の中のあらゆるものに接することも不可能なので、ぶっちゃけ寺が自分の中で優先順位が低かったというのなら、それもまた仕方ないことです。

ただ少なくとも「食わなかったことを誇るセンス」だけは今すぐゴミ箱に捨てるべきです。と、興味があればゴキブリさえ食べにいくほーりーは思います。

地球少年の昆虫食ツアーでコックローチを食べてきました

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