全お坊さんに告ぐ! ほーりーは「布教」という言葉が苦手です。
私がお坊さんとお話ししていて苦手に感じることの一つに、「布教」という言葉があります。
私はお寺は仏教を土台とした場と考えています。ですが、仏教を伝える場とは(直接的には)捉えていません。お寺の本筋からはだいぶ外れているとは思いますが、それが私のスタンスです。
以前、お坊さんが作るフリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』で、一号限りの編集長をさせて頂いたことがあります。このフリーペーパーのコンセプトは一般の人に分かりやすく仏教を伝えることですが、私は編集長の依頼をお聞きした時、「お坊さん側に立っての、仏教を伝える内容では記事を書きませんよ」ということを条件に引き受けさせて頂きました。
その時は宿坊をテーマに取り上げ、もちろん私なりにお寺に興味を持って頂く内容で構成はしましたが、フリーペーパーの根幹を覆す方針に許可を下さったフリスタ編集部には感謝しています(その時の号は現在までのオンラインダウンロード数で歴代一位になっており、少しは報いることができたかなと思いますが)。
また、ある時、お坊さんの勉強会に講師として呼ばれ、「お寺を活性化させる意味は何ですか?」と聞かれました。私にとってお寺を活性化させる意味は、一般の人が(もっと言えば、私が)楽しめるお寺を増やすことです。
私はもっともっといろんなお寺に足を運びたいと思っています。そしてそこで新しい発見をしたり、人生に役立つ気づきを得たり、知らない方と出会って意気投合したり、単純に笑ったり、そんなことができるお寺が増えたらと願っています。
ですが、それは必ずしも仏教だけと直結しているわけではありません。そしてまた、「仏教を学ぶ」ことより、「楽しむこと」「人生に役立たせること」が優先です。ですのでこれはお坊さんが求める意味とは違うものですし、勉強会でお寺を活性化する意味を質問された時も「それはお坊さんが考えることではないでしょうか」と答えさせて頂きました(ちなみになぜか知り合いのお坊さんには、その回答が一番心に刺さったと言われました)。
私が「布教」という言葉を苦手にしているのは、そこに提供者目線を強く感じるからです。特にもっとも記憶に残っているのが、あるときお坊さんとお話ししていて「お葬式は布教の場」という言葉を聞いた時でした。
お葬式は遺族にとって、つらい、苦しい、大切な人とのお別れの場です。そんな場を布教の場と捉える行為は、あまりにも心をないがしろにしたものだと私は感じてしまいます。もちろん、お葬式を布教の場なんて考えてはいけないというお坊さんの言葉も聞きました。また、お葬式だからこそ、仏教を伝えることが心に最も寄り添う方法だと、信念を持たれるお坊さんもいると思います。
ですので私は、お坊さんの言う「布教」という言葉を否定するつもりはありません。ただ、私は苦手です。そしてこの言葉を苦手としている方は、決して少数派ではないと感じています。
私は時々、お坊さんとぶつかります。ですが楽しい場を場を作ろうという私と、仏教を伝えたいと願うお坊さん。イソップ童話の「北風と太陽」のように、回り回って仏教の布教にも楽しいお寺づくりにもつながるのであれば、その時点で両者の方向は一致するのかなと考えています。