身延山久遠寺に、聖地を手放す覚悟は芽生えるか?
先日、日蓮宗宗務院に呼ばれ、身延山活性化会議に参加してきました。
いやー、3~4年前に研修講師で深く関わっていた時はよく行っていましたが、久しぶりの建物です。こちらで最初に講師をさせて頂いたことから、いろんな宗派にお呼ばれするようになったので、やはり私にとっては思い入れのある場所ですね。
そんでもって今回のテーマは、日蓮宗の総本山・身延山久遠寺。私は日本中を見回しても、このお寺は他にないほど大きなポテンシャルがあると考えています。
これは裏返して言うと、現実と潜在力の差が激しいということでもあります。せっかくの魅力が世の中にまったく伝わっておらず、ほとんどの方に知られていません。
その辺について語りまくったのが以下の3記事です。
それでこれらの記事。最初にアップした時は、普通に日蓮宗のお坊さん達からぶっ飛ばされると思ってました。そのくらい身延山は大切な聖域ですし、ふれてはいけない空気を感じていたので。
が、私もびっくりするくらい、お坊さんの間で回し読みされました。否定意見もゼロではありませんでしたが、ほとんどが共感意見。皆さん、私と同じことはかなりお腹にたまっていたんですね。
「よく言ってくれた」
「なるほど。この手があったか」
「いや~、確かに身延山は大変なんですよ」
と、日本各地のお坊さんからメールやメッセージを頂き、トップ層の会議でも報告され、今回のほーりー召喚となったわけです。
身延山に足りない5つの要素
今回は身延山活性を検討しているプロジェクトチームで、私がミニ講演をしつつ会議にも参加する形になりました。
そして講演で話したことですが、私は身延山に足りないのは以下の5つと考えています。
これらを一つずつ、解説していきます。
町歩き
身延山は久遠寺を中心に、門前町が広がっています。しかしこの門前町を歩く楽しさがほとんどありません。
町内には様々な史跡がありますし、お土産物屋や飲食店もあります。しかしそれを詳しく紹介したり、散策コースを作るといった誘導がないため、誰も気づかず興味も持たず、立ち寄ろうともしないのです。
これは奈良でも似たような話がありますね。「奈良は大仏しかないから3時間いれば十分」なんて酷評されてますが、中心だけでなく周辺も含めて魅力を底上げしないと人を惹きつけることも滞在時間を伸ばすこともできないわけです。
このため私は身延山活性化において、まずは何よりも観光ガイドブックを作ることが、最初の(本当に最初の)一歩になると考えています。
情報発信
身延山は情報発信がとても下手なお寺です。これは技術の問題ではなく、精神の問題です。
お寺は開けば開くほど俗化する。身延山にはこうした空気が他宗派の本山より遥かに色濃く、それが今のとっつきにくい現状につながっています。
しかし私は開くことで聖域は磨かれると考えています。これは以前に似たような課題が議論された京都・東本願寺(真宗大谷派本山)でも話したことがありました。
お寺を開くことは本質を磨く力になる。東本願寺でお寺活性講演をさせて頂きました。
お寺を開けば、必ず自分たちの価値観を理解しない人が訪れ、衝突します。しかしそれは向こうから悪意でぶつかってくるわけではなく、単純に分からないだけです。
温泉だって水着で入る外国人に、悪気があったわけではありません。そして裸で入るものという説明の明示はだいぶ一般化してきました。お寺の作法も同じで、大半はコミュニケーションによって解決します。
そうしたお寺に馴染みのない人との衝突を受け止める覚悟が見えないのが、今の身延山が発する情報です。
東京
私が身延山にポテンシャルを感じる大きな理由の一つに、東京から低料金でアクセスできる立地の優位性があります。
簡単に言うと金沢と比べた時、時間と交通費は以下の通り(Yahooの路線検索で調査)です。
東京~身延(三島回り) 3時間23分/5730円
東京~金沢 3時間2分/14120円
しかし現実として、東京で身延山の名前を見聞きする場面はほとんどありません。また、池上本門寺も東京屈指の大寺院でありながら、浅草寺や増上寺、築地本願寺などと比べていまひとつ存在感の薄いお寺です。
私は池上本門寺に新たな風を入れることが、身延山活性化にもつながると感じています。私の売り込みをしてもあれなので会議ではさらっと流しましたが、その有力な手段は池上本門寺に宿坊を作ることです。
高野山をまねて身延山カフェとかやっても、二番煎じなのですよ。
僧侶との接点
身延山久遠寺の朝のお勤めは、いつも100人ほどのお坊さんが登場します。これは率直に言って日本一の規模と私は考えています。
これは高野山と比べると顕著です。高野山の宿坊では、朝のお勤めはそれぞれのお寺で行われます。これはこれですごいプレミアム感ですが、中心寺院でまとまって行われる久遠寺の方が圧倒的に大規模です。
また久遠寺と似たような形式では、長野県の善光寺と京都の智積院があります。この2ヶ寺も規模の大きな朝の法要がありますが、身延山にはかないません。
しかしそんな身延山のお勤めのすごさが語られることはほとんどありません。善光寺や智積院で宿坊に泊まるとお坊さんや公式案内人に丁寧にお勤めの解説をして頂けるのに、身延山はたいした案内もなく勝手にどうぞ的な扱いです。
こうした姿勢は他の様々な場所でも見え隠れしていて、身延山久遠寺は他の本山級のお寺と比べても僧侶と接する機会の少ないお寺と私は感じています。
オープン化
身延山にとって、多分一番ハードル高いだろうなと考えているのは、このオープン化です。これは何かというと、企画のコントロールを外部に委ねることです。
この概念はガラケーとスマホを比較すると、分かりやすいです。キャリアが全てをコントロールして生み出されたiモードなどは、一時期全盛を極めました。が、インターネットに自由に接続してメーカーの手を離れてアプリも自由に入れられるスマホは、あっという間に世界主流になりました。
こうしたオープン化の概念が近年一番うまくいっているのは、やはり高野山です。
南海鉄道を始めとした様々な企業に、どんどん企画をゆだねていく。そこには宗教とビジネスの綱引きもあるでしょうが、真言密教の世界は10年前より間違いなく世間に広まりました。
寺社旅の講師で、真言宗のお寺で金剛界・胎蔵界曼荼羅について話すと、見たことある、聞いたことあるという人はいるけど、日蓮宗のお寺で釈迦如来と多宝如来ですと話すと、ほとんどの方はへ〜となる。その分、日蓮宗の方が解説は楽だけど、高野山と身延山の差はこうした部分に現れてるなと思います。
— ほーりー(寺社旅研究家) (@holy_traveler) 2016年11月28日
お寺の外の人間が持ち込む企画が、仏教を完全に理解してそれをゆがめることなく伝えらえるなんて、そんなはずはありません。が、一方でそうした人にも専門分野があり、それはお坊さん達には成し得ないことができるスキルです。
なので必要なのは「こいつ、仏教を知らないな」なんて上から目線ではなく、相手の専門性に対するリスペクトであり、足りない仏教部分を相手の企画に乗せていく構成力です。
オープン化は依存とは異なります。全体的な方向性は自分たちで生み出しながら、そこに乗ってきたものはガチガチに管理せずに委ねる姿勢です。
身延山にはこれまで自分たちの枠だけで制御してきた聖地を、一度手放す覚悟が試されています。
ということで、、、
あれこれダメ出ししているようですが、私は身延山はこれからすごいことになっていくと感じています。ただしそのためには超えなければならないハードルも多く、その最初の一歩は上でも述べた聖地を手放す覚悟でしょう。
そのために今回は、「消費されることの重要性」も話をさせて頂きました。内容は以下のリンク先をご参照ください。
自分達の考えからはみ出た伝わり方は一切許さず、中にこもって守るのか。それとも誤解を許容しながら全体として少しずつ伝えていくのか。
「動かざること山の如し」なんて冗談も出ていた一筋縄ではいかない身延山ですが、今回の様々なお坊さんの反応で分かった通り、遠慮しあっていた部分も多いのではないかと思います。
会議には身延山から来たお坊さんも出席していましたし、今回の会議が良い方向に向かっていけばと願っています。これからも力を貸してほしいと言われたので、きっとほーりーも何かで絡んでいくでしょうし。
ということで、身延山についてはこれからも注視していきますよ。