先代住職の性格は、次代のお坊さんにどの程度影響を及ぼすか
前回、50代のお坊さんから、住職がいつまでも継承させてくれないため、このままでは自分が住職になっても何もできなくなるという相談を受けた話を紹介しました。そしてお寺社会はなぜ、50代や60代でさえ若手と呼ばれるのか。その背景をまとめています。
簡単にまとめると、以下の通りです。
○団塊の世代が70代に入り、60代よりも人数が多くなった
○檀家さんの年齢も上がり、住職が高齢である方が居心地の良い人が増えた
○結果として引退を求められることがなく、年齢が上がっても住職を続けやすくなった
せっかくなので、グラフも再掲します。人口における70代の比率(濃い青線)が、ぐぐぐっと上昇しているのが分かるでしょう。
もちろんこれは全体傾向に関する話なので、個別のお寺では様々なケースがあります。ただしここで強調しておきたいことは、お寺の継承が上手く進まない問題は、地位を手放そうとしない住職や不満を持ちながら唯々諾々と従い続ける副住職だけに問題があるわけではないということです。
人間関係は複雑で、個人の意志だけで全てが決まるものではありません。副住職から見たら早く引き継いでほしいと思っても、住職から見たら同世代の檀家さん(多数派)に引き留められていることもあります。
また何も問題を抱えていないお寺は珍しいと思いますが、これを解決してから引き渡したいという親心が、問題を長引かせることもあるでしょう。
お互いに良かれと思っていることや、衝突を回避しようとした結果が、大きな問題になったりもします。そしてこうした人間の相関図は、渦中にいると客観視できなくなるものです。そこで今回は前任者と後継者がどのような関係になりやすいかを、ほーりーの好きな歴史ネタから紹介してみます。
徳川歴代将軍に学ぶ、前任・後任者の関係性
テーマは徳川幕府に15人いた歴代将軍です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のうちだれが好き? という質問は歴史好きには定番ですが、ほーりーは家康派です。
信長、秀吉は天才肌な魅力がありますが、家康は苦境の時代を耐えに耐え抜いて踏み固められた強さがあって、その揺るぎのなさが太平の世を築きました。ただ一方で、いくら家康がスーパースターであっても、後々の将軍がいなかったら250年も徳川幕府は続いていません。
そしてこの歴代将軍のエピソードは、偉人伝としての面白さだけでなく人間心理やお寺社会の構造を読み解く上でも参考になります。そこでまずは、歴代将軍の顔ぶれを紹介します(諸説ある話も多いので、あくまでほーりーの読み解きです)。
初代・家康と共に、二代・秀忠、三代・家光は、15人いる将軍の中でも別格の有名人です。しかし四代・家綱となると、「どんな人だっけ?」という方も多いでしょう。続く五代・綱吉は忠臣蔵にも登場しますし、歴史や時代劇が好きな方には名の知れた将軍です。
この五人は韻を踏むように豪腕と穏健な性格(あるいは政治姿勢)を繰り返します。
家康については先に述べましたが、その家康が天下人へと登り詰める時期に、青年期を過ごしたのが秀忠です。戦では他の兄弟と比べてめぼしい結果を残していませんが、平和な世を築くには温厚な人柄が必要と評価されたと言われます。
そして三代家光はすでにほぼ神格化した家康を見聞きしながら、幼年期を過ごしたでしょう。元来は内気だったとも伝わりますが、参勤交代や鎖国制度の確立、日光東照宮の大改築など豪放な施策も目立ちます。こうした人格形成には父(秀忠)よりも祖父(家康)への敬慕が大きく影響したようです。
四代家綱は、「左様せい様」と呼ばれた将軍です。これは老中から何を言われても「左様せい(そのようにしろ)」と答えたため、付けられたあだ名でした。
さらに五代綱吉は前半は治世と称えられた一方、後半は「生類憐みの令」などを広めて評価が分かれます。歴史家の間では様々な論考が繰り広げられていますが、先代により軽くなった将軍の権威を取り戻すため、物言う将軍であろうとした面はあったようです。
その後も奇数、偶数できっちり分かれるわけではありませんが、この韻を踏むように豪腕と穏健が繰り返される傾向は続きます。
例えば享保の改革を実行し、徳川家中興の祖と呼ばれて暴れん坊将軍のモデルにもなった八代吉宗(上の写真)と発音障害があったと言われる九代家重、50年間将軍であり続けた十一代家斉と何を言われてもそうせいと答えて「そうせい様」と呼ばれた十二代家慶は、個性も実績もバラバラですが関係性が似ています。
最後の将軍となった十五代慶喜は優れた人物として語られていますが、十四代家茂も勝海舟から絶賛された方でした。しかし体が弱くて20歳で亡くなったため、もしも長生きしていたら慶喜の歴史的立ち位置は大きく変わっていたかもしれません。
前任者と後任者の性格は、真逆になることが多い
このように徳川歴代将軍を俯瞰すると、政治に積極的なタイプのもとでは控えめな、おとなしいタイプの後には活動的な将軍が誕生していることが読み取れます(おとなしいタイプは二代続いた後に、活動的な将軍が現れることも多いかも)。
これには二つの理屈が考えられます。ひとつは現在と逆の性格を持つ人間が、次期将軍として選ばれやすくなることです。そしてもうひとつは前将軍や周囲との関係で、本人の性格によらず求められる人間像を演じなければならなくなることです。
例えば二代秀忠と十二代家慶は、その典型かもしれません。先代が存命のうちは半ば言いなりのようでしたが、亡くなった後は指導力を発揮しています。
八代吉宗も、もともとは将軍になるつもりがありませんでした。しかし七代家継が8歳(満年齢だと6歳)で亡くなったことで、急遽将軍の座が回ってきます。その選ばれた理由の中には、紀州藩主時代に財政を再建した政治手腕もありました。
誰でも将軍になれたわけではないため、天の采配的な部分も大きいでしょうが、それでも先代が後継者に与える影響はとてつもなく大きなものということが分かるでしょう。
ということで、、、
ほーりーはこれまで13年間寺社コンを続けて500人以上を結婚に導きましたが、この活動の中で耳にタコができるほどよく聞いた言葉に「草食化」があります。
この言葉はもはや一時の流行に留まらず、社会に根付いてしまった感があります。しかし現在の結婚適齢世代が、異性に積極的になれない理由のほとんどは、個人の性格によるものではありません。
下の資料はほーりーが恋愛セミナーを行った時のものですが、実際に恋愛結婚の数は今も昔も変わりません。現代の若者が草食であるなら、50年前の若者も同じく草食でした(むしろお見合いで自分の意志とは無関係に結婚していた人が多かったため、昔の方が草食ではとも思います)。
ようするに人間なんて、世代が変わってもそんなに大きな違いはないということです。ただし社会環境や世代間の関係性により、まったく逆の性質に変化します。
そしてお寺の住職に限りませんが、意思決定層は概して定年がない(あるいは極端に高い)傾向にあります。なので日本社会はあと10~20年、団塊の世代の影響が強いままと思われます。
さらにそのぶん、リーダーとしての経験を積めず、その気力も持たなくなるのが下にいる世代です。なので次に日本で社会を変革させていく人物は、現在の10~20代に多くなるでしょう。ちょうど黒船っぽく、コロナ禍が社会を震撼させていますしね。
(もちろんこれはあくまで傾向としての話であり、個別に見れば世代の枠に囚われずに動く人はたくさんいます)
このため住職が跡を継がせてくれないというお坊さんは、20~30代であれば家康のように虎視眈々と地固めしていくのも良いと思います。が、それ以上の年代の方は、既存の組織とは別の場所にも活動範囲を広げることをおススメします。
ほーりーも脱サラして人生ゲームからコースアウトした人間ですが、それなりに理にかなった適応戦略だったと感じていますしね。