「不便」「不自由」を売りにするお寺が気を付けなければいけないこと
先日、とある方とお会いしてたら、面白い議論になりました。お寺は「不便」「不自由さ」が売りだという話です。
これは宿坊創生プロジェクトでも、ときどき出てくるテーマです。宿坊は至れり尽くせりになってはいけない。なんでもかんでもサービスするのでは、その辺のホテルと変わりません。テレビの設置や布団の上げ下げ、門限の設定など、あえてお寺として厳粛な環境を保つ方法もあります。
静かな時間を提供したければ、テレビを置かないというのは一つの手です。長い夜を静かに過ごして頂くために写経室を設けたり、本堂や縁側を開放してもよいでしょう。
しかし一方で、この「不便」「不自由」を売りにする姿勢は、お寺側の準備不足や面倒くささから生まれることもあります。私は「不便」「不自由」には3つの種類があると考えています。そこでここではこの「不便」「不自由」の種類について、ひとつずつ紹介します。
「不便」「不自由」を売りにするお寺が気を付けなければいけないこと
最低限度が満たされない「不便」「不自由」
これを下回ったら、対応は不可能という「不便」「不自由」です。
例えば極端な話ですが埼玉県秩父市にある宿坊・大陽寺は、「大陽寺入り口」という最寄りバス停から歩いて2時間かかる山の中にあります。
これを歩いて登る人はもちろんいます。ですが多くの人には時間的、体力的にも難しい話です。そこで大陽寺の住職は毎日のように山道を往復1時間かけ、宿泊者を車で麓の駅まで送迎しています(正直言って、このパワフルさは尋常じゃありませんが)。
ここまでいかなくても部屋の不潔さ、分かりにくい情報発信、不明確なルールなど、人によって許容範囲は異なります。海外からの旅行者であれば、言語の壁も対応できない「不便」「不自由」となりえるでしょう。
この不便・不自由はお寺にとっても相手の立場に立ちやすいものですが、それでも多様さが求められるこれからの社会ではどこまで幅広く配慮できるかが鍵となります。
物や時間の「不便」「不自由」は、楽しむことができる
最低限度が満たされていれば、物や時間の「不便」「不自由」は楽しむことができます。お寺が売りにする「不便」「不自由」はまさしくこの領域でしょう。
現代の日本は物があるのが当たり前、自由であるのが当たり前という社会です。そのカウンターとして身動き一つ許されない座禅に参加したり、一切無言の食事から得られる学びはたくさんあります。
そしてホテルで「うちの食堂は私語禁止」などと言えば、間違いなく大きな反発を受けます。ですがそれが新鮮な体験として好意的に受け止められるのは「お寺が持つ場の力」です。
私自身、こうした体験に衝撃を受けてきた一人です。それは人生を豊かにするきっかけにもなりますし、お寺にはどんどん気づきや学びが得られる「不便」「不自由」を作ってほしいと考えています。
対人の「不便」「不自由」は確実に人を遠ざける
いっぽう、楽しむことができない代表格は、人と接する「不便」「不自由さ」です。
お寺の人が歓迎の空気も作ってくれない。質問しても面倒くさそうにあしらわれる。よく分からないルールを押し付けられるなど、話しかけることさえ抵抗を感じるのなら、楽しむどころではありません。
「お構いしないことがサービスです」なんて言うと、どこかの高級旅館みたいですが、同じ「お構いなし」でも思いやりと都合の押しつけは異なります。
物や時間の「不便」「不自由」を楽しめる環境とは、結局のところそれでも安心していられる環境が作られてこそでしょう。
ということで、、、
繰り返しになりますが、なんでもかんでもサービスすることは、お寺には求められていません。できる範囲、できない範囲を明確にしたり、場を保つために普通ならあるものをあえて省くことは、お寺にとって必要なことです。
ですが、厳しさを出すのであれば、それを圧倒的に上回る気遣いや思いやりがなければ反発されます。「不便」「不自由」を売りにするということは、お寺にとって至れり尽くせりのサービスをする以上に覚悟が求められることなのです。
こんなのわざわざ言われなくても当たり前だよ~という方も多いでしょうが、冒頭の会話の他にも「お寺は不便・不自由が売りなんだ」という言葉が、何もしないことの免罪符のように使われる場面を何度か見たので、考えたことをまとめてみました。