万博寺を受け狙いとしか見ない方は、広く浅くの重要性に気付いていない
先日、大阪・関西万博で一日限定の『万博寺』が行われました。そして前日には大阪駅と直結しているルクア大阪でもプレイベントがありました。
お彼岸中にも関わらず、全国からお坊さんがプレイベントには50人以上、本番の万博寺には250人以上も集まり、これは面白そうだとほーりーも出かけてきました。
月末締め切りの原稿やいくつかの仕事を大急ぎで終わらせて、万博チケットを慌てて購入! ポチッた翌日にはすべて売り切れになっていたので、ぎりぎり何とか間に合いました。
そんなわけで、プレ万博寺。ルクアの地下にあるイベントスペースで、お坊さんによる雅楽や音楽ライブ、手品やパフォーマンスが披露されました。
下の写真はいつもお世話になっている円東寺の増田住職、我らがPRINCO(プリンコちゃん)です。両手に持ったロープが長くなったり短くなったり一本につながったりしながら、目に見えるものが全てではないんですよと、マジック説法をされていました。
そして万博寺では各宗派の法要や生前葬セレモニー、テクノ法要が登場しています。キャッチコピーは、『生死脈々』。万博キャラクターのミャクミャクにかけられたものですね。
お坊さんがアウェイの場に出る大切さ
当日の写真や詳しいレポートはあちこちで見られるので、ここではほーりー的な視点で感想を述べてみます。
まず見ていて何より感じたのは、「広く浅く」の大切さです。お坊さん達がアウェイの場に出て、お寺なんて興味ないよという人達の前に姿を現すことは、本当に重要なことだと思います。
当日に万博に来られた方のほとんどは、万博寺が行われることなど知らなかったでしょう。なのでほーりーが注意して見ていたのは、万博寺の前を通り過ぎた方のうち、どれだけの方がそこで足を止めたかでした。そして実際に足を止めた方がどのくらいの時間、その場で過ごしていたかです。
その結果ですが、ほとんどの方は素通りです。当日は万博自体が人であふれて、遠目からだとステージを認識しづらかったこともありますが、ちょこっと覗いてお坊さん達が何かしていると目を向けたなら良い方でした。
この写真は万博寺を俯瞰的に撮影した写真(大屋根リングに上がって撮ったので、後ろ側から)ですが、こんな風に人が行き交う中で行われています。
ただそれでも足を止めた人の中には、食い入るように万博寺を見ている方も少なくありませんでした。そしてここからは推測ですが、そうして楽しまれた方も数日経てば、お坊さんたちの姿は記憶の彼方に追いやられるでしょう。
でもほーりーの意見としては、それでいいのだと思います。そりゃー、世の中の人々がそろってお寺に足を運んで合掌しながら法話に耳を傾けるなら、それが一番何よりです。
ですが現実的にはそんなことはありません。それであれば多くの人が素通りする中で少しずつでも記憶に残り、それが種になってどこかで芽吹いてくれたなら、万博寺としては成功なのだと思います。
広く浅くの重要性とは
家に帰ってSNSを見ていると、多くは好意的なコメントでしたが、万博寺なんてやりやがってとか、仏教者のやることではない、一日限りの打ち上げ花火に意味はあるのかなど、否定的なコメントもいくつか出ていました。
中にはかなり口汚く罵っていた方もいましたし。そしてこういう言葉にふれるのって、なんか懐かしさすら覚えてしまいました。
少し前だとぶっちゃけ寺とか、美坊主コンテストとか、スター坊主とか(ほーりーが行っている寺社コンなども)、そんな意見にさらされましたが、最近はこうしたイベントが少なくなっていたので。
ぶっちゃけ寺を見なかったと誇るお坊さんの、絶望的センスのなさ
スター坊主のキラキラした光に焼かれて、ばた足の努力を見ない人達
もちろん批判される方も真剣な想いで語られているわけで、それをさげすむつもりはありません。ただ万博寺に集まっていたお坊さんとは、見ている世界が異なるなとは感じます。
ほーりーはいろんな講演でにわかファンの大切さを話していますが、図にするとこんな形ですね(こちらは浄土真宗のお坊さんの前で話した資料なので宗名が書かれていますが、構図自体はいろんな宗派にも通じるものです)。
ということで、、、
今回のタイトルに「広く浅く」なんて言葉を使っているのは、真剣な想いで万博寺を作られたお坊さん達からすれば噴飯ものかもしれません。
ですが実際にお寺の本堂で行うよりも、「広く浅く」ならざるを得ないのは致し方ないことでしょう。そしてこの記事は万博寺にきたない言葉を投げつけている方に向けて書いているので、あえて分かりやすくつけています。
まあ、問題はそうした方は多分読まないことでしょうが。じゃあ何のために書いているかと言えば、頑張る人を叩く風潮の放置を危険視しているためです。その辺は下の記事に詳しく書いているので、ご興味あればお読みください。
後は仲間に否定的な言葉を投げかけられるとむっとしてしまう、ほーりーの心を落ち着けるためというのもあるかもしれません。
それと蛇足的に語るなら万博という会場で行う上では、目に見えないいろんな制約があります。そもそもこんな場所で布教活動するわけにはいきませんし、舞台上でも音や光を扱う上でいろいろ苦心されたと聞きました。
ミャクミャクだって、気持ち悪いとかこれが万博の顔なのとか、最初はものすごく批判されていましたしね。ですが世界中に無数にあるキャラクターやシンボルマークを真似したと思われてはいけないとか、色や形がシンプルでないと様々なグッズが作れないなど、複雑な条件の中で生まれています。
そして最終的には大人気になって万博の集客に一役買いましたし、赤字になったらどう責任取るなんて言われていた万博の成功にも貢献しました。
万博寺も仏教に精通している方が見れば、歪なところは多いかもしれません。ですが難しい条件をクリアして、新しい形を模索しなければ生まれない仏縁だってたくさんあると思いますよ。